大衆映画食堂

昭和の日本映画に登場する食べ物たちの記録

『真田風雲録』お茶、おにぎり弁当、おにぎりとするめ、差し入れ弁当とだいだい

真田風雲録

関ヶ原の合戦場で野盗のまねごとをする子供たち、お霧(渡辺美佐子)、六(ジェリー藤尾)、清次(大前鈞)らは佐助(中村錦之助)という不思議な少年に出会う。彼は赤ん坊の頃、隕石の放射能を浴びて人の心を読めるようになってしまったがため人々から疎まれ、人里を離れてたったひとりで生きている一匹猿だった。お霧は佐助に恋をするが、彼はまたひとりでどこかへと消えてゆく。そして14年後。天下太平が訪れたかに見える徳川の治世であったが、大坂では秀頼公が素浪人・腕自慢たちを集め戦を起こそうとしていた。大坂へやって来たお霧たちは再会した佐助、南蛮風歌うたい・由利鎌之助ミッキー・カーチス)らと共に豊臣家の重臣にして希代のチャランポラン親父・真田幸村千秋実)の家来となり、「自分が何のために生きているのか」を確かめるため戦に参加することに。せめて自分は何かでありたい。何かとして死にたい。しかし大坂城内はそんな彼らの思惑とは裏腹に、徳川方との密約が交わされていて……


時代劇ミュージカルコメディ。
現代の口語で語られる素直で直接的な台詞がイキイキしている。「ぎたある」をかき鳴らすミッキー・カーチスはなぜか南蛮風で歌もいまどき、大坂に集ったチャランポランたちはそこがダンスホールであるかのごとく歌い踊り、対して大坂城の腰元たちは清く正しい賛美歌を歌うという楽しい構成。登場人物たちも超チャランポラン幸村=千秋実を始めとしてキャラ立ち抜群、楽しい映画だ。
だが登場人物誰もが「自分はどう生きるのか?」と悩み、こうありたいと願う理想と状況・立場に押しつぶされる現実との間で苦しむというテーマはとても重い。誰もが諦念に囚われ、本来ヒーローとして描かれてもおかしくない佐助や幸村ですら「何者」にもなれず終わる。佐助が唯一心を読めなかった男=感情のない参謀・佐藤慶の独白は印象的。でも彼は最後の最後で、願いが叶ったのかもしれない。

┃ お茶

お霧たちが豊臣軍勢参加者を募る面接会場に行くと、大坂城の前に設置された受付は我も我もという猛者たちでごった返していた。みんな色々と騒ぎ立てて受付の武士に自分を売り込もうとしているのだが、その長机の一番奥に何故か女官が座っており、彼女はまるで別の時間が流れているかの如く、悠々とお茶を啜っている。

┃ おにぎり弁当

その大混乱をさらに大混乱に陥れた罪でタイホされたお霧らだったが、「カッコよく死にたい」が信条のチャラ親父・真田幸村によって「真田十勇士」に引き立てられ、釈放された。幸村は猛者受付に並ぶ浪人たちの超大行列を眼下に望む高台で、お霧らにおにぎりとたくあんの入ったお弁当を食べさせる。これらは竹の皮で包まれていて、おにぎりの中身はうめぼしであった。

┃ おにぎりやするめ

大坂城城下は浪人たちでごった返し、ぐっちゃぐちゃの状態。お霧らはおにぎりやするめを食べながらその喧噪を見ている。ミッキー・カーチスの煽動?で歌い踊る浮浪者、浪人、遊女たち……。歌詞がテロップで出るのがちょっと笑える。

┃ 差し入れ弁当、だいだい

やがて幸村は豊臣勢の作戦を差し置いて奇襲攻撃をかけたとして牢に入れられる。佐助たちは工事の手伝いをさせられている。俺たちは勝ったんだよね? 徳川勢も別に損害を受けなかったけど……、そう思う者もいたが、世の中はそれで天下太平に戻った……かのように見えていた。そんなとき、幸村のもとへお霧がそっと差し入れに来た。丸い重箱(?)に入ったお弁当とだいだいである。お弁当は皆から(給食的なものなのかもしれないけど)、だいだいはお霧から。
後の加藤泰の作品、『沓掛時次郎 遊侠一匹』や『明治侠客伝 三代目襲名』では果物が思いやる心(コミュニケーション)の象徴として印象的に使われるが、そのはしりだろうか。